平将門

 

桓武天皇の皇子葛原親王の孫高望王は臣籍降下により平姓を賜り上総介となって関東に下って来た。大日本史の「表」の国郡司上総の部に、これは寛平二年「890年」五月のことである、と書いてある。宇多天皇の治世である、藤原基経が最初の関白として権威を振るっていた頃である、高望王はこの任命を勝ち取る為基経の許しにお百度参りして、さんざん機嫌をとり多分家人になりすましたことだろう、高望王は上総介に在任中に相当な私領地をこしらえた。大体この時代から中央では芽の出そうにない、下級公卿が地方官となって地方に下って私領地を営み任期が終わると。そこに土着して地方豪族となることがはやっているが、高望王もこのはやりに従ったのである。これらの私領地作りにはさまざまな方法がある、荒蕪地や原野の開墾が最も普通だが買収、受贈、婿入りによる取得などはノーマルな方法で、荒っぽいものもある、公地のごまかし、官権を傘に着ての横奪等々だ。高望王もきっと色々な方法を活用して、手に入れたであろう。彼の子供が散らばっているところを見ると、その私領地は上総、下総、常陸、武蔵、の諸国に散在していたであろう。こうして高望王は関東の在地地主を当時の言葉で住人、または武士といった。

 

日本における武士の発生、発生の原因発生当時の武士がどんなものか。大宝令には、

 

軍団の規定があって常備の軍隊がおかれることになっていたが、平安朝の初期

 

桓武天皇の延暦年間「782年」に経済上の理由で廃止され日本には常備軍はないことになった。しかし軍備は一面では警察力である。微力な盗賊や追捕なら、検非違使で十分に間に合うが、武装した大集団の強盗は手におえない。国民は必要上から、自警手段を講じなければならなくなった。寺院の僧兵、神社の武装神人はこうしてできた。同時に在地地主らは一族の末家の者を家ノ子とし、私領地の民の中で剛健多力の者を選んで郎党として、

 

武技を習わせて従えた。これが武士の起源である。つまりこの時代武士とは在地地主とその家ノ子、郎党らとを、武力具有の面から呼んでいるにすぎない。だからその本質は地主

 

自作農、小作農、でりっぱに生産人だったのである。後世の戦国中期から以後江戸終末期

 

に至るまでの武士が純然たる消費人であったのとは大違いなのである。

 

武士の発生はどこが先ということはなく、大体全国一斉であったが、それでも坂東はその本場とされた。これは天皇国家の発展史に関係がある、天皇国家の勢力は近畿地方から、先ず西に広がり、東国の征服は随分おくれた。白河関以北は鎌倉時代初期に平泉藤原氏がほろぼされるまでは、厳格には天皇国家の版図にはなっていず、蝦夷人の王国であった。平安朝初期に坂上田村麻呂の征伐などがあって、一応制圧したようではあるが、その後も叛服常なく、ついには平泉藤原氏のような強大な支配者が出て三代にわたって栄たりなどして、いるのだから、先の大戦の満州ほどにも行っていなかったといえる。さしずめ。陸奥守は満州総督、鎮守府将軍は関東軍司令官くらいのものであったろう。

 

坂東地方はこの地と境を接している辺境地帯である。蝦夷人との絶えざる紛擾交戦の状態があったろう、また当時の陸奥や出羽にはひんぴんとして叛乱が起こった。前九年の役や後三年の役などは特に大きいもので、記録にも載らないさわぎは無数にあったに違いない

 

 

 

「騒ぎが起きれば朝廷では、征夷大将軍を派遣することになるが、軍隊のない政府だから

 

将軍は従者数名をひきいただけで、坂東に来て、兵を微募し、これをひきいて現地に乗り込むのである、板東人はここでも戦闘馴れして来るわけである、このようにして坂東人は勇健となり、武技に秀で最も理想的な武人に鍛え上げられ、平安朝末期から鎌倉時代を通じ南北朝の初期頃まで、関八州の兵をもって天下の兵に敵することが出来るとまでいわれた。平安初期から中期頃までは、坂東には牧場が多かった。一体牧場は人間のいない片田舎に営むよりほかないのだ。日本でも聖徳太子の頃は今の京都の伏見あたりが聖徳太子の牧場になっている。中央の開け方が地方にひろがって行くにつれて、牧場の位置は遠くなりこの時代には坂東に移ってさらに進むと奥州に移り、今日では北海道が本場だ。この時代は坂東が本場だった、この点もこの時代の坂東が開拓時代のアメリカ西部に似ていて興味深い、最近の歴史学者は将門の乱がおこる数十年前に「馬をやとう」業者があったといっている。その頃関東の豪族らには官道往来用として馬を貸す業をいとなんでいる者共がいつか官馬を盗むことをはじめ、たがいに連絡をとって、東山道で盗んだ馬は東海道で使い、又その逆もあり、官では取り押さえる証拠がなくて弱ったというのである。これは

 

将門の乱のはじまる以前の関東の豪族らの一生態であったがこれが将門の乱のおこる一背景をなしているという、歴史学者の推察でもある。ここでわれわれは、アメリカ西部劇の馬泥棒、牛泥棒、駅馬車強盗、と同じ現象をみる。開拓時代の西武に実によく似ている。

 

 

 

さて、高望王は地方官としての任期満ちた後も京都に帰らず、関東に土着し、その子らもそれぞれの場所に落ち着いた。高望王の子は六人いたようである。国香、良兼、良将、良より、良文、良正、。国香は常陸の石田「今の茨城の真壁の明野の石田」。に住み良兼は上総介となって今の千葉県の山武地方」、良将は鎮守府将軍、下総守となって下総国豊田郡「今の茨城の石下」、良より、は不明、良文は今の埼玉県の「熊谷市」に住み良正は常陸六郎と称して、今の茨城の筑波地方に住み、いずれも土地の豪族として威勢があった。桓武四世

 

の孫とはいえ藤原氏と血縁の関係がないのだから、京にいてはまるで冴えないのだが、草深い地方に落ちてくれば、帝系を去ること遠からぬ高貴な血統というので、十分に重んぜられたのである。

 

将門は三男良将の子である。通称は小次郎。小次郎というのは、太郎、次郎などと同様に兄弟の順序を示す名称だ。小次郎というのは三男でありながら次男の扱いをする子という意味だ、だから彼には二人の兄がいたはずであるが、これは早く死んだのであろう。聞こえるところがない、いつ生まれたかも不明である。彼は早く父に死別したらしい。これも見当だけのことだが、十五、六の頃だったのではないだろうか。この頃の彼の住所は父譲りの豊田である。豊田の名称は現在では茨城の石下の一字に局限されてしまったが、この時代には一郡の名称である。現在の鬼怒川の西岸向石下に、将門の邸址がのこっている。

 

今ではお寺になっているが、この寺を取り巻く杉林の中に濠の痕跡が歴々としてのこっている。父が死んで当主となって間もなく京都に上ったらしい、官位をもらうためである。地方の住人らがこの年頃になると京上りして、羽振りのよい公家の家に家人として奉公しその推薦で官の位、例えば数年して左、右衛門尉、それに付随する正七位上くらいの位階をもらって帰国するのは、当時は普通の習慣であった。このような官位をもっていると、国で住人らの間で羽振りがきいた。国府の役人らも鄭重に待遇した。もしその官位が同族の中で最高のものであれば、同族の上に立つ長者ともなれた。京では北家藤原氏の長者の忠平の家人となった。この時代忠平は左大臣であり、二、三年後には摂政となり、最後には太政大臣となった人である。将門の父も家人奉公して官人となり、だんだんご機嫌をとって鎮守府将軍を射止めたのではなかろうか、こうした猟官運動なくして、地方の武士らが官職につくことはなかった時代なのである。将門が何年滞京したか、わからないが、多分三,四年のものであったろう。平氏系図に「滝口小次郎」とあるから在京中に滝口伺候の侍になったようである。滝口というのは清涼殿の東北方、御溝水「みかわみず」の落ちるところで、ここに禁中の警備や雑役に従う者の詰所があり、これを滝口所といった滝口の侍とはここに詰める侍のことだ。微かな役だが単に宮中に勤仕するだけでもありがたいこととした時代だから、この時代の地方武人は名誉として、よく誇らしげに「滝口ノなにがし」と自ら名乗っている。ずっと後のことだが「神皇正統記」に、将門が検非違使たらんことを希望したのに忠平が推薦してくれなかったので、怨みをふくんで帰国し、ついに叛逆したとある。ここの検非慰使は検非慰使尉であるから、旧軍隊なら少尉か大尉、警察官なら署長くらいの各だ。それにしてもらえなかったからとて、関東独立国を造ろうと考えたとは、ずいぶん不釣り合いなはなしだが、これが朝廷に愛想をつかす動機となったというなら、うなずけないこともない。将門が後年叛逆に踏み切ってから旧主忠平に出した手紙が「将門記」に出ているがその中にこうある。「将門天の与えるところ、既に武芸あり

 

思惟するに、等輩誰か将門に比せんや」。彼は万人に卓越する武芸の持ち主であるとの自信を持っていたのだ。おそらく、忠平の邸に家人として来ている地方の住人らと騎射の芸を競ったこともあったろうが、負けたことがなかったであろう、これほどの俺に検非尉使尉くらいの官位を惜しんで与えないと思えば、こんな朝廷クソくらえという心理になったとしも不思議ではない。将門と藤原純友とかが比叡山に登ってはるん大内裏の壮観を見下して叛逆を共同謀議し「まろは桓武五世の孫である故。天子となろう。おことは北家藤原氏の人故、関白となり給え」という約束したという伝説が記してある。という約束が記してある。これは後に将門の乱と純友の乱とが時を同じくして起こったので、当時から共同謀議の疑いを抱くものがあり、「外記日記」の天慶二年「93812月の条にも「平将門と謀を合わせ心を通じこのことを行うに似たり」とあるので先ず「大鏡」がこれを採用し、ついにこれを演義して比叡山上の場面を創作するものまで出来て来たのであろう。頼山陽がこれを信用して「日本外史」に書きこんでから最も広く世に知られ、今てせはぬきがたい国民伝説の一つとなった。共同謀議はしたかも知れないが、その痕跡はつきとめられない。

 

まして比叡山上のことなど証拠のあろうはずもない。私の見当をいえば、純友は将門が叛乱したとの、噂を聞いて、自分も叛乱を起こしたのであって、両者の打ち合わせなどないとみる。何年か京に留まっていた後、将門は帰国したが間もなく伯父の良兼と所領についての紛憂をおこした。争いは良兼だけではなく、良正もそうだった、一族の長者がかれこれ我欲の所業におよぶことはいつの時代もそうである。

 

この争いを続けているうちに、将門は前常陸大濠源護の子息らと争いをおこした。源護は坂東の住人であった。その館は石田にあったという。国香と同じ村に住み将門と源護の子息らとの争いは女の事が原因であったという。ある日、将門は少数の郎党らをひきいて、豊田の館を立ち出て、今の下妻近く迄行ったところ将門に恋する女を奪われ怨みを含んでいた、源護の子息らは多数の兵をひきいて、山か林の陰にかくれて将門の来るのを待ち構えていたが、将門が来ると旗をひるがえし、鐘をならし、整正と押し出してきて、道をさえぎり、挑戦した。将門は応戦するのを不安に思ったが進退ともに困難であるとみて、決然として全力をあげて戦い、ついに勝ち得、潰走する敵を追い勢いに乗じて今の下妻付近の敵方の村々を焼き払いさらに手分けして筑波、真壁、新治三郡における敵方の者共の家百余家を焼いた。この間に源護の息子らはぜんぶ討ち取られた。また石田では伯父国香の館が火にかかり、国香も死んだ。これが将門が実戦において武勇の将たることを関東の人々に示した最初である。時に承平五年「935」二月将門の年推定二十三、四、五。

 

国香の長男貞盛、はこれ以前から京に上がって左馬尉になっていたが、父の横死の報を受け関東に帰ってきた、「将門記」によれば貞盛はその心理はかなり奇妙である。

 

「自分は朝廷の人間である、姻戚の縁にひかれて弔い合戦などと騒ぐより、京に帰って役目を守り官途で運命をひらくことを考えるべきである。その上自分には新しく父に死別した母があってこれを養う義務もある。父の遺領の田畑も多数あってこれも管理しなくてはならない、将門となかよくして、都と地方で心を合わせ、共に朝廷のお役に立ちたい」

 

つまり貞盛りは将門を父の深讐として憎む気持ちはないのである 。この述懐には、領地の管理を将門に頼もうという意味もありそうである、貞盛りには繁盛という弟がいたが、この頃は子供でとうてい管理など出来なかったであろう。叔父らがこんなことに頼りにならない人々であることは、将門の場合でよくわかっている。その点将門はこういうことで人の指弾を受けるようなことは生涯していない。頼みになると思ったとしても不思議ではない。こんなことを考えると貞盛と将門は少年の頃から仲のよい友達であったのではないかという気がしてならない。石田と豊田はわずか十七、八キロのものである。

 

しかし源護の方はそうはいかない。男の子三人ながら一日で討ち取られた怨みは深刻である。良正にたいして、しきりになげきくどいた。源護の娘は水守の常陸六郎良正に嫁いでいたので、その妻は若くて美しかったろう。これが父の意を受けて、涙ながらに口説く、しかも相手は田畑の相続問題で執拗に食いさがつてくる憎い将門だ、良正は心を動かし

 

「よろしい必ず敵を討って進ぜますぞ」と引き受け、戦支度にかかり、準備なって挑戦状を送った。当時の合戦は後世の個人同士の決闘と同じく双方で日時と場所をとりきめた上で行うのが原則であった。かくて承平五年十月二十一日、場所は小貝川の近くの川曲り両

 

軍出張って合戦したが結果は良正方、惨敗であった。

 

六十四人討ち取られ、にげ隠れるもの無数というのである、青二才とみくびっていた

 

将門に手厳しい痛棒を食らわされ、良正は無念千万だ、多年売り込んだ常陸六郎の名も泥土にまみれるとあせった。しかし一人ではかなわないので、上総の良兼に助成を求めた。

 

良兼は源護の長女を娶っている後妻だと思うが、良兼の妻は兄弟を殺され心穏やかではない。大いに良兼を口説いた、老年の良兼も「承知したやがて行く待っていろよ」と

 

良正に返答している。良正は元気づき、また戦支度にとりかかる、良兼が支度なって上総の館を出発したのは、承平六年六月二十六日であった。小貝川の合戦があってから、八か月目である。「雲の如くに上・下の国(上総、下総の意)である、将門記」には述べてある。

 

非常な大軍であったことがわかる。良兼は現職の上総介だから、その点でも勢力があったはずである。しかし私的に兵を動かすことなので、間道を通って今の香取市の神崎に出、河を渡って常陸の江戸崎につき、水守ついた。この水守に昨夜から貞盛が来て泊まっていた。彼は共同して戦う為ではない。先年上京以来良兼に会っていなかったので挨拶のためにきていたのである。この貞盛に、良兼は、「そちは将門となかよくしているそうな、それでは武士とはいえんぞ武士にとって最も大事なのは名だ。自らの父や親戚を殺し、自らの財物を略奪した敵とどうして仲よくする気になれるのだ世の人は何と言おう。わしらと一つになって将門を討て」と説論した。これにたいして、貞盛は「人口の甘きによって、本意にあらずといえども、暗に同類となる」とある。言葉をつくして懇切に言われたのでことわりきれず、本心ではなかったが、仮になかま、となったのである。こういう首鼠両端を持する態度が後に将門をして最も深刻な怨みを貞盛に抱かせることとなにったとおもわれる。連合軍は先ず下野の国に向かった、ここから豊田に向かって南下しようとしたのであった。将門の方も油断なく、かねてから細作を出していたろうから、敵が下野方面に向かったと知ると先発隊百余騎を出した。国境線のところで待っていると、敵は数千という大軍である。しかも新手である、こちらは二度の合戦でいためられて兵具もとぼしく、人数も少ない、とうてい敵対出来そうになかったと書いてある。ためらっていると敵は勢いたち、盾をつきならべ猛烈な攻撃に出た。将門方は主人がまだ到着しないのだが、しかたなく相手になり「歩兵を寄せて人馬八十人を射取る」とある。溝や堤の陰を巧みに利用して近づき、横矢を射かけて狙い撃ちにでもしたのであろう。

 

良兼方はおどろき恐れ、盾を退けて少し下がって陣をかまえようとした。その時、将門が到着した。将門は天性の武人だ、どうしてこの好機を見のがそう、鞭をあげて馬を疾駆させ、大音声に名乗りをあげて突撃に出た、連合軍はしどろになって下野国府に逃げ込んだ。

 

将門は一旦これを包囲したが、一族のよしみを思って西の一面を解いて、逃げるにまかせた。そのために良兼以下の武将らは逃走した。こういうところが将門の心の美しさで、坂東の武士らの心を得たゆえんでもあるが、同時に欠点でもある。大事業をやりとげる人間は、切所においては、おそろしく非人間的な酷薄さのものである。

 

将門の武名は上がり、伯叔父らは一時おとなしくなったが、源護がことのはじめに京都に告訴していたので、それにたいして、左近衛番長英保純行「あなほともゆき」・

 

同じく宇自加支興「うじかもちおき」らが事件関係者らの国の国府に官符を持参して来た

 

「護・将門・侘田真樹「国香の郎党」」の三人、至急上京して太政官に出頭せよ」

 

という意味のものである。将門はけしかけられた喧嘩をうけて立って相手をたたきつけただけだ。十分な自信がある。十月十七日に出発して上京し、公の法廷に出て一切の事情を述べた。朝廷は将門の陳述を理ありとして、兵を動かして世をおどろかせたことは叱責したが、罪はごく軽かったばかりでなく、その武勇の名が京中に高くなった。間もなく年が改まり、この時朝廷に慶事あり、大赦がおこなわれることになったので、将門も恩恵にあずかり、四月七日に恩赦の詔が出て、五月四日帰途についた。この時期の朝廷の慶事というのは、この年の正月四日に天皇が元服されていることが、「扶桑略記」に見えるからそれであろう。豊田に帰りついて間もなく、また良兼が合戦を挑みかけてきた。八月六日に下総と常陸の境である小貝川の渡しに押し寄せてきたのである。この時良兼方は思いもかけぬ奇手をつかった。平家の太祖である高望王と将門の父の象を陣頭に押し立てて来たのだこれに向かっては将門は弓はひけない。くわしくは、わからないが、陣中に何か怪異があって、兵らの士気が喪失したらしい、兵数も少なく、また兵具も劣弱だ、将門方は盾を負うてひたすら退却した。相当な敗戦だったようである。良兼方が勝つに乗ってずいぶん手ひどいことをしている。豊田郡に侵入して、将門の所領内の民家はいうまでもなく、将門に味方する。豪族の家々まで火を放ち、翌日早朝に引き揚げている「将門記」より

 

生まれてはじめてのはいせんだ、将門の無念は骨髄にたっした。挑戦状を送り、その月十七日、いつもに倍する兵を集め、盾をたずさえること三百七十枚、豊田郡の堀越の渡しに出た。定めの時刻、敵は来た、ところがこの日、将門は「急に脚病を患い」つまり急に脚気になって脚がしびれ、意識朦朧となったのだ熱でもでたのであろう。この頃の戦争は

 

後世とちがって、主将の個人的武勇が重大な要素となつている。この以前の坂上田村麻呂でも、この以後の源頼光、頼信、頼義、義家、らにしても、個人的武勇が抜群であったため、将士に心服され、大功を奏し、名将と称せられたのだ。後世のように床几に腰かけて采配を振るっていたのではない。将門もそうだったのだ。勇猛絶倫で騎射巧みで打ちもの技に優れ、常に先頭に立って奮戦したので、それがこんな風では、士気の上がりようがない。一戦に撃破され、算木を打ち散らしたように、ちりぢりになって乱れた。良兼軍は前回以上の乱暴を働き、この前の侵略では助かった民家も1軒のこらず焼かれ、徹底的に略奪され、峻烈をきわめた。将門はやっと館に逃げかえり、一旦妻子とともに猿島郡の芦津江に、逃げたが、やがて妻子を船にのせて、広川の江の芦の間にかくし、自らは降間木の沼に潜んだ。芦津江は今の芦谷新田のあたりだそうで、広川の江は飯沼だそうです。ともに、当時は大きな沼だったそうです。しかし、数日後妻子らは発見され上総に連れ去られた。将門は悲嘆し、憤ったが病気の身でどうすることもできない。歯がみするばかりであったが、妻の舎弟らが計略をめぐらして、妻子らを送りかえしてくれた。九月十九日には

 

また合戦があった。良兼は筑波山麓の「今の羽鳥」に営所を持っているのだが何か用事でここに来ていることが分かった。病気ようやく癒えた将門は直ちに、押し寄せて十分に

 

打ち勝ち「今の羽鳥」の営所はもとより、付近一帯の敵方の与力の者の家を全部焼き払った。良兼が筑波山に逃げ込んだので、露営して探索したが良兼がかたく山にとじこもって出てこないのでついに豊田にひきあげた。 

 

 

 

十二月五日に、太政官符が関東諸国にくだった。こんな文言。「国々は良兼・護・貞盛・

 

公雅・公連・(この二人は良兼の子供らである)らに力を合わせて、将門を追補せよ」

 

将門はいつも受け身でしかけられたので立って戦ったに過ぎないのだから、太政官符は逆というべきなのだが、相手方は現 官僚であり前官僚だ。公辺への運動の道筋、方法など熟知している、うんと賄賂を使って、この運びにしたのであろう。将門としは対抗策を講ずる必要がある。彼が豊田から、今の岩井市に移ったのはこの時であろう。場合によっては、全関東を敵としなければならない立場になったので、湖沼に取り巻かれた地形のよい岩井に移ったのであろう。

 

将門追捕の官符は下ったが国守らはいずれも、真面目に実行しない。朝廷がだまされていることを皆よく知っている。争いの本質が同族内の喧嘩にすぎないことも知っている。

 

いいかげんにしておくに限ると思ったのであろう。良兼はあせって心を砕いていると、将門の使い走りの小者の春マルというのが、源護と貞盛の館のある石田に情婦がいてちょこちょこと通っていることを知った。早速つかまって将門の館の要害を尋問した。馬に乗れる郎党頭に取り立ててやると誘惑した。春マルは他愛なく落ちて、良兼方の間者を連れて行き、岩井の営所をくまなく見せてまわった。間者の報告によって良兼は夜襲計画を立てて十二月十四日、の夜、精騎八十余をもって向かったがその道筋に将門の郎党の家があって これに気づき、途中まで尾してよく様子を見定めた後、別路から岩井に駆け抜け報告した。

 

この夜岩井の館には、十人くらいしか兵がいず、館中大さわぎになり、女子供は泣きだす始末であったが、将門はこれを落ちつかせ、郎党らを励まして部署につかせ、敵が押し寄せてきたとみるや、かえって突出して逆襲した。夜襲勢はおどろき、おそれ、盾を捨てて逃げ走った、良兼の上兵、多治良利をはじめとして、四十余人を討ち取った。将門の武名が上がったことはいうまでもない。春マルは年が明けて正月三日、裏切りが発覚して捕えられ殺されている。ところで貞盛だ彼のことは最初良兼に口説かれ心ならずも味方した場面以外、どこにも「将門記」には出てこなかったが、此処に出てきた、「どうして暮らすも一生だ。おれは多年朝廷に勤務して佐馬充という官についている、京にいって出世の道を心がけるが上分別だ」と初心に立ち返り承平八年春二月、山道をとって上京の途についた。

 

これが将門にわかった。人間は羽振りがよくなると、親類がふえるというが、味方が増えるのは確かだ。誰かが知らせのであろう。将門は百余騎をひきいて急追した。

 

「京にのぼらせては、弁口にまかせて讒言をかまえるであろう」と考えたのだと「将門記」にある。京都朝廷は地方の実情にはまるで盲目のくせに、権式ばった観念論だけでことを判断するところであり、賄賂のききめのよいところだ。賄賂と弁口さえそろえば、白を黒にするくらいわけない。しかしそれだけではなかろう。

 

貞盛が最初和解を約束をしながら、たちまち、心変わりして良兼方に一味した背信を腹に

 

すえかねていたのであろう。将門は生一本で荒削りな正直者であったようだ。だからこのような、背信には人一倍腹を立てていたはずである。

 

追い追って、信州小県郡国分寺の近く、千曲川のほとりで追いついた。今の上田市だ。激戦が行われた。圧倒的に将門軍は強く、貞盛は命からがら、山中にかくれた。将門は窮地にたった敵にとどめを刺しえない、心の持ち主だったようである。先年の下野国府での良兼にたいする、態度で分かる。貞盛は旅費のほとんど全部失って、困難な旅を続け京に入り太政官に「関東諸国の国司らは官符を受けながらも全然奉行しようとはせず、従って自分らの努力は顧みられない。だから将門は益々、逆心を抱き、益々、暴悪をたくしましくしている。」と訴え出た。旅費もなく京へたどりついたのだから、賄賂は使えなかった思われるが。いや案外知人から、融通してもらったかも知れない。しかしそうでなくても、

 

権威主義の朝廷としては、官符が無視されているという事実には大いに立腹するはずである。この年は五月二十二日に天慶「てんぎょう」と改元されるのだが、その翌月、朝廷は

 

貞盛に将門の召喚状をあたえた。貞盛はこれを持って、関東に帰り、常陸介藤原維幾に渡した。この男は貞盛の母方の叔母婿である。維幾は貞盛から受け取った召喚の官符を将門に送り続けたが、将門は上京しなかった。口先と賄賂でくるりくるりかわる朝廷のやり方が、ばかばかしかったのだろう。この頃将門の威勢は大変なものになっていたらしく、どうやら、関東の大親分といった気味合であったようだ。最も尚武的で、男性的気概を尊重する土地柄だから、彼の輝かしい戦歴と誠実で男性的な性質とが、関東人の人気に投じたことは最も自然であろう。将門は招命に応じないし、諸国の国司らは依然としてこの問題に不熱心だし、将門の威勢は朝日の昇るようであった。良盛はつくづく内地がいやになった。一族の平の維扶「高望王の子孫でなく、公家系統の平氏の人と思われる。」が新しく陸奥守となって赴任の途中下野国府に到着したので、これに会って陸奥に連れて行ってくれるように頼んだ。維扶が承諾したので、随従して陸奥に向かったが、これがまた、将門にわかった、これも将門に好意を持つ者が注進してくれたのであろう。将門は兵をひきいて追ってきた、良盛は山に隠れた将門は山狩りをしてさがす。かれこれうるさくなったので

 

維扶は貞盛を打ち捨てて、白河の関を越えてしまったのである。その後の良盛は悲惨であった、風のそよぎ、鳥のさえずりにも心をおいて、逃避をつづけることとなった。この翌年、二月、武蔵の国に大事件が起きた。この頃武蔵の国に新しく権守として、興世「おきよ」王、介として源経基が赴任してきた。興世王は桓武五世の孫、経基は清和二世の孫、

 

経基の父貞純親王が清和の第六皇子なので経基は六孫王と異称されていた。

 

清和源氏の始祖となった人だ、

 

桓武―伊予親王―継技王―三隅王―村田王―興世王

 

清和―貞純親王―経基

 

一体、この時代、中央から地方官となって地方に来る連中は大いに儲けたいと思っていたのである

 

猛運動し、費用もだいぶ使ってやっと得た地位だから、赴任したら、埋め合わせをつけなければやり切れないとおもっていた。今の悪徳代議士みたい。そこで、この二人も着任すると、早速、管内巡視すると言い出した。こんな巡視には管内の豪族らがうんと献上ものをするのが習わしになっていたからだ。ところがこれに、異議を申し立てる者がいた                             のだ足立郡の大領「郡長」で武蔵竹芝という男だ、これは武蔵の国造「くにのみやっこ」の末裔であるから、元来の武蔵人としては、第一の名家の当主だ、大領としてすぐれた手腕があり、公事に精励して、上にも下にも、受けのよい人物であったが、これが「新任の権守や介の管内巡視は、正任の守が赴任されてからという先例になっています。」と言ったのだ、二人は立腹した。「大領風情で無礼なことを申すな」とはねつけ、武装した兵を率いて、推して巡視した。武芝は衝突を恐れ、家族らを引き連れ山野に身をかくした。二人は足立郡に入ると、武芝の所有になっている、所々の屋敷や、その一族や郎党の家を、不審ありという理由で検討したり、品物を持ち去ったり、随従の者共が盗み涼奪したことはいうもでもない。持ち去った品物の返還をもとめたが、新国司らは、筋道たった返事はせず、かえってひたすら合戦の用意をする。風聞は関東一円にひろがり、将門の耳にもはいった。

 

将門は「オレはいずれも関係ないが、この騒ぎはただごとではない、仲裁してやらねばなるまい。」と仲裁に乗り出した。これは大親分でなければ考えないことである。前に彼が大変な威勢になり、大親分的存在となっていたらしい、と書いたのはこの事実が゜あるからである。将門は三人に会って話をすると、いずれもまかせる故、よろしく頼むという、そこで、三人そろって国府に行き、ここで和解の盃をする相談が出来たが、経基は後で行くと言って狭山「今の狭山」だろう、 の営所に残っていた、将門は武芝と興世王とを連れて国府に行き、和解の盃をさせたがその頃、狭山では大変なことがおこっていた。

 

武芝の従兵らが経基の営所を取り囲んだ、思うに、山に待たされて、退屈しのぎに酒でも飲んでいるうちに、酔を発し、自分らの郡での、この前の経基の従兵らに乱暴狼藉を思い出し、むらむらと腹が立ったのであろうか。「将門記」には武芝の従兵だけのことにしてあるが、将門の兵もまじっていたかも知れない。とすればこれは制止のためであったろう。

 

あるいは、和解を承諾されたとは祝着でござると酔った機嫌で祝を言いに行ったのかも知れない。ところが、経基はいきなり営所を取り巻かれたので、驚き恐れた。清和源氏の太祖となる経基もこの頃はまだ都育ちの物慣れない、少年といってもよいほどの若さだった。

 

てっきり、武芝と将門が興世王を抱き込んで、自分に危害を加えるために兵をつかわしたと、判断して、あわてふためいて、都をさして逃げのぼった。経基がこんな妄想を抱いたところを見ると、彼は平生から興世王とそりが合わなかったかもしれない。

 

経基は京に到着すると、朝廷に三人が謀叛を起こしたと報告した。朝廷も驚いたがうわさが、市中に漏れると、京都中のさわぎになったという。

 

しかし謀叛とは容易ならぬことだ、にわかには信じがたいとて、将門の主人である太政官忠平が調べてみることになって、事情を調査して報告せよとの教書を助直に下した。助直とは中宮職の官人であるが中宮御領の支配人として関東に住んでいる人物なのであろう。

 

もちろんこれも、忠平の家人であった。教書は三月二十五日に京を差し立てが、二十八日にはもう届いている。最大限に急がせてある。助直は早速、将門に報告通達した。

 

将門は驚いたが、謀叛などとはあとかたもないこと、事の次第はしかじかと上書をしたため、常陸、下総、下野、上総、上野、武蔵、六か国の国府の証明書を書いてもらい、これを添えて送った、五月二日のことである。この翌月上旬良兼が上総の館で病死した。 

 

 

 

六か国の証明までつけて、無実を訴えた将門の上書を見て、朝廷は疑いを解いたばかりでかく、それらの証明書に将門の武勇や人望の厚いことなども書いてあったので、将門に官位をあたえて、朝廷の役に立たせたいという議論まで出たのであるが、人間の運命はとかく曲りやすい。この直後から、将門の運命が狂いはじめるのである。

 

狂いの原因の一つは彼の家に興世王がころがりこんで来たところから、はじまる。この頃武蔵の正任の国守百済貞連「くだらさだつら」が着任したが、貞連は興世王と妻同士が姉妹だというのに、興世王と気が合わず、役所内で、興世王のポストもあたえない、面白くないので、任地をはなれて、将門の家に来て寄食の身になる。第二は常陸の住人藤原玄明

 

「はるあき」という、人物を将門が庇護しなければならなくなったことだ。この男は相当な名家の生まれで、その兄弟と覚しき玄茂「はるしげ」という人物は常陸の国の上級役人であるくらいなのだが、玄明はおそろしく素質の悪い男である。民をしいたげては、略奪はする。納税はせず、国府から催促にくれば、乱暴して追い返す、世の持て余しものになっていた。これが常陸の官物を強奪したので、常陸国府の藤原維幾はは度度、弁財するよう督促したが、れいによって追い返して寄せ付けない、維幾は怒って、太政官に訴えて追捕状を下してもらい、追捕にかかった。これに抵抗すれば叛逆罪だ、さすがに困って当時威勢隆々たる将門にかくまってもらおうと、手土産を持ってきた。これを将門のは抱きとった。「将門素より不幸者をすくいて、不憫な者や不幸な者をみては助けてやらずにいられない義侠的性格であった」と将門記に書いてある。もちろん維幾は引き渡しを要求する。

 

将門は言を左右して応じない、交渉を繰り返している間に、双方激情的になって、ついに

 

合戦ということになる。世の中にたいして不平満々、事あれかしと思っていたであろう、興世王があおりたてたことは間違いないであろう。

 

将門の合戦は、これまですべて同族との私闘だったが、ここにはじめて官軍との戦いとなったわけだ。将門は千余人の兵をひきいて、常陸に押し出した。維幾方は数千の兵を用意し、迎え戦ったが、将門は一戦に叩きのめし、三千人を討ち取り、進んで国府を包囲した、維幾は降伏し、印鑑を献上し、一家は捕虜となった。将門軍が相当以上に乱暴狼藉を働いたことは、「将門記」で明らかだ。しかしこれが当時の戦争の実相である、将門軍に限ったことではない、今現在でも戦争はそんなものである。将門は一応豊田郡に引き揚げ将来のことを議したところ、興世王は「案内を検するに一国を討つといへども公費軽からず、同じくは坂東を涼奪して暫く気色を聞かせん」と主張いた。

 

一国を取るのも誅せられ、八州を取らんの意味だ。将門もその気になり、ついに謀叛に

 

踏み切った。将門は下野国府に向かいさらに上野国府に、むかった。いずれも国司は戦わず、降伏して、将門を迎え、再拝して印鑑を捧げる。将門は関東独立国を立て、帝王たることを宣言したのは、上野国府においてであった。こうして将門は関東独立国の新星となった。時に天慶二年十二月十五日。

 

この少し前、伊予「今の愛媛県」では藤原純友の乱がはじまっている。将門が常陸国府を占領して、叛逆に踏み切ったということを聞いて、おこしたのである。しかし二人の叛乱は長くはつづかなかった。二か月後の天慶三年二月十四日に、みじめな逃避をつづけていた、貞盛が下野の豪族藤原秀郷「田原藤太」を語らい、常陸介維幾の長男為憲と心を合わせ、兵を起して、将門を討ち、ついに岩井の北山で討ち取ったのである。純友も又、京に攻め上ろうとして淀川尻まで船を進めた時、将門の敗報を受け取り、船を返したが、後は次第に勢いが窮して、天慶四年六月、伊予で官軍に討ち取られたのである。

 

死んだ時の将門の年齢は三十前後であったろうと、推定している。

 

 

 

 

 

(文中、岩井は現在の坂東市である。日秀の将門神社は日秀村産土にして、創立年代は明らかにならされないが、伝るところによれば、天慶三年将門戦没するや、其の遺臣等の日出弾正の守が手賀村より、手賀沼を騎馬にて乗り切り湖畔の岡陵に登り馬をひき、地域に於いて将門公の神霊を迎えしと言う。それが将門の井戸と神殿であろうといわれている。       )

 

 

 

参考文献   海音寺潮五郎の史談と史論、湖北村史、歴史読本、

 

       司馬遼太郎の歴史を紀行する。歴史予話。

 

                  (文責  小池正夫)