旧日秀(ひびり)村の村社将門神社は字上宮前、手賀沼を眼下に望む丘陵の南端に鎮座している。
祭神は平将門。明治四十一年(1908)に字掘込(ほつこめ)にあった無格社水神社(祭神は水波賣命)を合祀して将門社から将門神社となった。
この日秀の地は平将門に関する伝承を今に伝える我孫子市内でも特記すべき所である。
神社の由来は、天慶三年(940)将門が戦没するや、その霊は遺臣等と対岸手賀沼村明神下より手賀沼を騎馬にて乗り切り、湖畔の岡陵に登り朝日の昇天するを拝したということから、村人がその地に一字を奉祀したのが将門神社の起こりであるという。
日秀(ひびり)の地名についても、将門の霊位が日の出を拝したからとも、またその遺臣である日出弾正なる者がこの地に隠栖(いんせい)したことから、日出(ひいで)村と呼ぶようになったとも伝えられているが、日出村の呼び方は元禄十五年(1702)の水神社の石祠(現在境内鳥居脇に遷されている)にも認められるが、寛文十二年(1672)の庚申塔には「日秀村」と刻まれている。江戸初期には両様に用いられていたことがわかる。
また将門は幼少のころをこの地で過ごしたとの伝承、日秀では桔梗を植えても花が咲かないしまた植えない(愛妾桔梗御前の裏切りによって将門が討たれたとの伝説にちなんだもの)。さらに胡瓜(きゅうり)は輪切りにしない(将門の紋所である九曜紋が胡瓜を輪切りにした状態に似ていることから)、成田不動尊へは参拝しない等、将門とのかかわりを色濃くのこしている地である。
最近になって、神社西方の日秀西遺跡が発掘調査され、古代郡衙(ぐんが)跡と考えられるに及び、この将門神社及び東方低地にある将門の井戸とのかかわり等、古代から中世への史実と伝承の谷間も鮮明されることであろう。
祭礼は正月六日のおびしゃと七月十四日の例祭を祇園(ぎおん)祭りと称し、初日の鎮守氏神における幟立から始まり三日間にも及び、また収穫を祝う秋祭りも行われていたが、現在は七月十四日の例祭のみとなっている。この日は「みやなぎ」と称し神社を清掃後、神主、氏子総代等の役員当番により神前にて玉串を上げ、当屋において直会の宴がある。その時当番の家の門口へ「奉納将門大明神」(天保六年正月奉納)の幟を立てるのでそれとわかる静かな祭りとなっている。
「我孫子の史跡を訪ねる」より引用