将門の井戸は、将門神社の南東の低地日秀字石井戸にある。成田線の踏切を手賀沼方向へ下がった左側沿いに進むと、灌木の茂みの中、老樹にいだかれるように静かに水を湛えている。まるで、古くから村人の間で語り継がれて来た数々の伝説と祈りを今に伝えるかのようである。
遠い昔、まだ井戸を掘る技術が充分開発されていなかったころ、多分人々は自然の湧水が豊富な場所に寄り集まって生活を営んでいたことであろう。水に対する意識もいまよりはずっと敬虔なものであったことであろう。そうして生まれて来た素朴な説話・伝承が、いつしか将門伝説と織り混じり合うことになる。
この井戸の側には、「将門の井戸・承平二年将門が開き軍用に供したと伝えられている」と記された角柱が立っている。
「湖北村誌」に「中相馬七ケ村には七つ井戸と称して必ず一村一個有せり、之を大日井戸と云う」とある七つ井戸の一つが、この将門の井戸である。この七つ井戸は、各村によって呼び方が異なり、日秀では石井(いわい)井戸と称していた。
昔、七か村の村人は正月元日、各村にあるこれらの井戸で若水を汲み、これを自家の井戸水に三杓ずつ加え、祖先に供える正月三か日の膳部を炊くのが恒例行事であったという。
今では、若水汲みの行事も上新木の香取の井戸で正月の神様に供える水を汲みにいったという古老の記憶と、中峠の元日の井戸(現在この井戸は公団の道路下となっている)という名称にのみその痕跡をとどめているに過ぎない。この将門の井戸も明治の末ごろまでは、こんこんと湧き出る清水を湛え手賀沼の低地へ落としていたという。そのころはきっと、種モミを浸す用水として村の生産活動の中枢を占めていたことであろう。今では湧水もわずかで、出る雨水を湛えるのみであるが、七月十四日の将門神社のみやなぎの日に、消防団の人々の手によって恒例の井戸さらいが行われている。
「我孫子の史跡を訪ねる」より引用